「福音主義」とは何か?
- レオン・モリス博士
福音主義者とは、福音の人という意味です。「福音主義(Evangelical)」は「evangel」と「gospel」という二つの言葉から成り立っています。定義上は、福音主義とは「福音に何らかのかたちで関わっている人」という意味になります。これは福音を今から先に宣べ伝える人という以上の意味をなします。その宣べ伝える人にとって、福音が人生の中心にあることを意味します。それはもちろん、その宣べ伝える人のメッセージや説教法が一定して継続的に行われていることを意味します。しかし、福音主義者とは福音を説教すること以上のことを意味します。福音がその人の思考や生き方の中心であることを意味します。
パウロ使徒はコリント人への手紙において、「聖書の示すとおりに、キリストが私たちの罪のために死なれた(1コリント15:3)」ことが最も重要なことであることを示しました。すべての福音主義者に関する問題はこの基本的な前提から生じていると私は考えます。
「キリストが死なれた」― この十字架が偉大であり、神の基本的な行いといえます。「私たちの罪のために」これは十字架が必要であったというやるせない事実です。これは全ての人類が良い行いをするよりも、むしろ悪い行いをするということを物語っています。全ての人たちはなし得る最大限の悪さをする可能性があるかのように福音主義者は考えているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。福音主義者たちは、私たちの誰もが完全ではないことを言いたいのです。心の奥底でするべきであると思っていることを常に行えている人はひとりもいません。誰も神様の基準を知ることはできません。
このことが福音主義者たちをどんな初期のあるべき姿の約束からも切り離されるのを防いでいます。福音主義者は他者への善行のためにどのような組織や計画にも直ちに加わるでしょう。これは福音主義者が十字架の愛を見てなすべきと考えた愛の仕事の一部です。今日では私たちは私たちの隣人に対する義務を今まで以上に重要なものであると悟るようになりました。これは実に良いことであると思います。しかし福音主義者たちはその信頼を人間的な努力に置くのではありません。そのような人は悲観主義者です。右翼の独裁主義も左翼の独裁主義も同様に抑圧の下、終焉を迎えることが分かっている人です。そして民主主義は混乱と魂のない官僚主義の下にしばしば帰結すると考えるでしょう。そしてどんなシステムをも良く機能するように最善を尽くすでしょうが、彼自身はそれらのシステムに信頼を置いていません。全てのシステムは罪人たちによる原材料をもとに機能しています。福音主義者たちはこの問題についてよりはっきりした見方をしており、このような悲観主義者は、自身が成し得る善業に固い制限を設けている罪人であると見なしています。
そしてこれは個人が究極の善を獲得する可能性を打ち切ってしまっています。罪人であるという事実はその人が永遠の救いのために働くことができないということを意味します。罪は人生から去り、これから先に結末がもっていかれます。
私たち福音主義者にとって驚くべき真理は「キリストが私たちの罪のために死なれた」ことです。人にあって不可能であったことが、キリストにある神によって完全に成し遂げられたのです。キリストは金輪際罪を打ち負かしました。福音とは救いのメッセージであり、現在形・未来形両方の意味での結末を有しています。
福音主義者たちは、贖いは客観的であるとともに主観的であると見なしています。福音は私たちに正に影響を与えますが、この影響は無限であり、私たちの主体的な経験によって制限されるようなものではありません。聖書の全巻はこの贖いに基づき、キリストがやがて来られるまでのことを疑うことなく継続的に書かれたものです。これらの書物は私たちが偉大な贖いについて理解するのに少々役立っていますが、完全には説明できていません。完全に説明することがどうしてできるでしょうか?これらの書物は罪ある人間たちによって書かれたものであり、この世の悪に浸された人々であり、その人々自身も悪に貢献してきているからです。人々はこれらのことを外側から見ることはできず、外側から何が必要なのか理解することはできません。しかし、福音主義者たちにとって重要なことは、私たちが完全に説明できないという無能さではありません。重要なことは、キリストが私たちの罪のために死んでくださったということです。必要なことはすべてキリストがなされました。この神の完全なる御業に付けたすべきことは何もありません。
それゆえに福音主義者たちは時代を経て自身を既存のキリスト教のシステムから解き放ち、神の召しによる救いの達成は、自身の善業や礼拝の観察その他いかなるものであっても、キリストの御業に付け足すべきことはないと主張します。キリストは死ぬほどのことをなさったのです。私たちの中のすべての標語や合い言葉などはキリストの犠牲する愛の下に消え去りました。
十字架に直面するとき、キリストに立ち返り、またキリストの信仰と愛に応答するようになるかもしれませんが、逆に心を固くしてしまうかもしれません。キリストの愛に応答することは異なる人間となることです。人生のすべての設定が変更されることです。福音主義者たちは転換の必要性を常に主張しています。これはタルソでサウロが突然目がくらんだように、突然に起こるものかもしれません。あるいはテモテのように徐々に生じていくのかもしれません。時間は非物質的なものです。転換がすべてです。転換はキリストの下に立ち返った全ての人に生じます。福音主義者たちは誰に対しても失望しません。福音主義者は楽観主義者でもあります。
怠け者にとっては十字架は重大なインセンティブとなるでしょう。キリストが全てのことを成してくださったのです。ですから私がするべきことは何もありません。それゆえ私はなにもしないでしょう。しかしそれは新約聖書のなすやり方ではありません。ヨハネ使徒は「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです(第1ヨハネ4:10-11)」と述べています。このヨハネ使徒の言葉から、私たちは互いに愛する義務があることがわかります。愛は泣き虫で感傷的な市民のための行動に欠けたものではありません。愛は神の人々すべてが神の偉大な愛に対する応答として実践するように要求されているものであり、第1コリント人への手紙13章にはっきりと示されているように、他者に溢れるようになされるべき行動です。愛は要求しています。キリストが死なれなければ、愛はキリスト教にとって偽りのものとなり得たでしょう。そのように考えるのはナンセンスです。キリストは私たちの罪のために死なれ、これらの罪を放り投げられ、それによって私たちが愛する人々となったのです。
私たち人類は魅力的な人たち、美しい人たち、私たちを愛してくれる人によるに愛を知っています。キリストの愛は罪人のための愛です(ローマ5:8)。この愛は罪を投げやられ、私たちのすべての自己中心的な考えを叱責し、愛が私たちの原動力となるようにさせます。これは私たちがまず兄弟姉妹を愛することを意味します。福音主義者たちは教会を最愛のコミュニティであると見なし、神様の目的において欠くことのできないものであると見なします。そして外部の人たちをも愛します。これは私たちの罪のために死なれたキリストの使者として人々を愛することを意味します。福音主義とは私たちが罪人のために私たちのもてる最善のプレゼントを持ってくることを意味します。
福音主義者たちはときに原理主義者のように見なされることがあります。尊敬すべき正統派教会からわずかに離れた人たちに対する同情をもたない人々のように見なされることがあります。私たちが罪がないと誰が言えるでしょうか?「嫉妬・憎しみ・悪意そしてすべての不親切」は人類共通の風土病のようなものです。私たちの過去の罪に対する悔い改めと、新約聖書で示される愛の応答とは十字架から流れ出るものであることを私たちが示すことができる新たな方法の発見は福音主義活動の列記とした一部です。
しかし十字架は愛だけではなく、低められることも意味します。今日においては、私たちは「小さいことが美しい」と言われています。このような考え方は新しい考え方です。しかしこのような考え方の要素は常に福音主義的な宗教の一部としてありました。十字架はすべての自己中心的な探求を非難します。十字架の意味を知り、その生を得た人たちが、自己中心的な偉業を模索することなどできるでしょうか?福音主義者は神の人々、教会、教会が含まれるコミュニティへ仕える者です。自分を捨て、自分の十字架を負う人です(ルカ9:23)。ライフスタイルは十字架が自身にとって意味することのゆえに、世の中のライフスタイルとは異なったものとなります。
さらに福音主義者に立てられた基準は、到達することのできないものであり、そのこと自体を福音主義者は知っています。しかし同時に激しい風が吹いてくるような響きが起こり、炎のような分かれた舌が現れて、聖霊が初代教会に集った人々の上に下ったペンテコステの出来事も知っています。ヨハネ使徒はイエスの生活について「まだ栄光を受けておられなかったので御霊はまだ注がれていなかった(ヨハネ7:39)」と述べています。しかしイエスが偉業を成し遂げたことで、御霊が下るようになりました。内在し、力づけられる聖霊の働きがクリスチャンの生活において欠くことのできない部分です。このことを福音主義者は理解しています。福音主義者は「聖化」や「神聖」という言葉を自身では決して到達できない基準を言及するために用いると同時に、聖霊が信じる者のうちに働かれる御業を言及するためにも用います。
「聖書の示すとおりに、キリストは私たちの罪のために死なれました。」この聖書の御言葉はキリストの死は父の御意志と同列のものであったことを意味します。偉大なる神性の目的は贖いの働きをなすことであり、この目的が聖書に示されていたのです。
福音主義者たちは聖書に非常に重きを置きます。これはひねくれた教理主義から生じたものではなく、クリスチャンの信仰において聖書が重要であるという深遠なる確信から生じたものです。世界中の多くの宗教は様々な考え方を示しています。ですからキリスト教についても、この宗教に文化の根を発していない人には関係のないことであるという人もおられるでしょう。仏陀やムハンマドが存在していたかどうかもあまり問題ではないと言う人もおられれるかもしれません。もっと意味をなすのは、多くの人たちに関連する多くの偉大な考えがあり、これらの考えに基づいて膨大な数の人々が生きてきたということです。
しかしこのような理由づけはキリスト教には適用されるものではありません。キリスト教には多くの偉大な考え方が含まれていますが、その考えがどこから生じているのかというのはあまり問題ではありません。パウロ使徒が語っていることはもっと異なる次元のことです。パウロ使徒は何かが生じたことを述べています。それはキリストが死なれたということです。これはただの考えではありません。これは歴史的な事実です。福音のメッセージは神がこの人類史上においてイエスキリストという人のかたちをとられて地上に下ってこられたことがあったということを語っているものです。 キリストが低くなられ、カルバリの丘で私たちの罪のために十字架につけられて死なれたのです。
キリスト教はその意味で他のどの宗教にもない歴史的な唯一の宗教といえるでしょう。この事実なしには、私たちは私たちの根から切り離される存在なのです。私たちは「御言葉」を通してのみ神に近づくことができます。神ご自身が私たちに福音をもってこの地にこられ、私たちに福音を与えられたのです。ですから福音主義者は感謝してこの神の良いプレゼントを受け取り、私たちの人生が依存する聖書を最も重要なものと見なしているのです。福音主義者たちは私たちの主の教えおよび使徒の教えを表現していきます。福音主義者たちはこの福音の事実が信頼できるかたちで証言されるべきであると主張します。
他にも福音主義者が主張する多くのことがあります。私は福音主義者としての確信について列挙するほどの余力がありません。しかしそれらすべての確信は福音に由来しているものであるということが言えます。すべての福音主義者のシステムは福音の完全に宣べ伝えるために存在しています。福音主義者はどんな失敗を犯しても怯むことなく、十字架を通して現れる救いの意味を表現しようとし、またその十字架の生を表現しようとしています。老若男女分け隔てなく、福音主義者は福音を宣べ伝える人として存在しています。
オーストラリア福音同盟雑誌「Working Together(1998年イシュー4、)」より転載。
レオン・モリス牧師はビクトリア福音同盟前会長であり、創設期からのメンバーでもありました。またメルボルンリドレーカレッジの前学長であり国際的には新約聖書学者として知られています。世界中で非常に実り多いミニストリーに携わっており、講演者・神学者および世界中で200万部が刊行された51冊の書籍の著者でもあります。
2001年7月11日水曜日更新
